エルビス・プレスリーの本当の死因は心臓発作ではなく便秘が原因だった?

『最も成功したソロアーティスト』として、ギネス記録にも認定されているキング・オブ・ロックンロールことエルビス・プレスリーの死亡原因が最近になって明らかになった。彼の長い友人で、晩年の10年間主治医を務めた医師が、このほど死亡の真相を明らかにした。心臓発作で亡くなったと伝えられているが、実は便秘で死亡したのではないかと明らかにしている。



エルビスの主治医であったジョージ・ニコポウラス博士(別名ニック博士)は彼と長く親交があり、1977年8月16日彼が亡くなるのを看取り、死亡後の解剖検査にも立ち会っている。エルビスは便所で倒れ、心臓発作で42歳の若さで亡くなったとされている。陰謀により殺害されたとの噂もあるのだが、博士は「かねてから処方薬の飲み過ぎで、不整脈があったのは確かだ。しかし、それ以前から慢性の便秘にも悩まされていた」と説明し「彼の死亡直後、実は運び込まれた病院でも、死亡原因についての意見が分かれた」と心臓麻痺だけが原因ではなかったことを語っている。そして、博士はエルビスの死亡原因について、ずっと研究を続けて来た。



晩年のエルビスは、過度のストレスから過食症に陥りジャンクフードを食べまくっていた。そのため体重が激増。おまけに睡眠薬も服用しており、体調は悪くなる一方であった。博士は慢性の便秘に苦しむエルビスに、人口肛門手術を受けてみてはどうかとアドバイスをしたのだ。だが、彼はプライドが許さずに拒否したそうだ。博士は、エルビスの死亡原因と、彼との思い出を綴った書籍を出版することを計画している。



ちなみに『便秘』は侮ると大変怖い病気だ。重度の場合には、便が直腸にコンクリートのように詰まるほどだ。便が出ないと腸内にガスが溜まり、腹痛・嘔吐などを引き起こすこととなる。さらに悪化すればショック症状を起こし、死に至るようだ。エルビスの便秘による苦痛も、相当のものであったのではないだろうか。


エルヴィスアーロンプレスリー (Elvis Aaron Presley, 1935年1月8日 – 1977年8月16日)は、アメリカのロックンロールミュージシャン。ミドルネームは墓石には Aaron とつづられているが、サイン公文書共に Aron である。キング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。1977年8月16日、心臓発作により急逝。42歳だった。



プロフィール

黒人のリズム・アンド・ブルースと白人のカントリーウェスタンを融合することによって、今までにない新しい音〈ロック〉を誕生させ、広めた人物として知られる。初期はアメリカ、そして世界中の若者にロックンロールによって人気を博し、後期になるとラスベガスの舞台でカントリーやゴスペルバラードなどを歌い、万人に愛される人物となった。



エルヴィスは最初、「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」の愛称で呼ばれるが、アメリカのバラエティー番組エド・サリヴァン・ショー』の3度目の出演の際には、保守的視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。その際にサリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことからサリヴァンにも罵声が飛んだ。しかしこのおかげでエルヴィスへの批判は少なくなった。また、フロリダの演奏では下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ、小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。



KWKラジオではエルヴィスのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。ロックンロールが青少年非行の原因だと中傷され、PTAはテレビ放送の禁止を要求など、様々な中傷の標的になった。



エルヴィスの記録は多数あり、例えば、最も成功した音楽アーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。



生い立ち

エルヴィスはミシシッピ州チューペロの小さな家で、ヴァーノン・エルヴィス・プレスリーおよびグラディスラヴスミスプレスリー夫妻の間に1935年1月8日に生まれた。彼はチューペロで幼年期を過ごし、13の時に一家はテネシー州メンフィスに転居した。彼には双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。一家は1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居する。エルヴィスは11歳からギターを始め、ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をした。彼はそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。エルヴィスは高校卒業後に精密金型会社で働き、次にクラウンエレクトリック社のトラック運転手となる。 スコットランド人作家アランモリソンはエルヴィスがスコットランド系であったと主張する。彼はその著書でエルヴィスの先祖が1700年代にアバディーンシャーのロンメイで暮らしていたことを発見したとする。また、記録によるとアンドリュープレスリーが1713年にロンメイでエルスペス・レッグと結婚したとしている。彼らの息子アンドリューが1745年にイギリス植民地に移住したとのことである。また、ケビン・コスナーは自著本で、プレスリーアイルランド人の血を引いていると主張している。同時に、プレスリーはドイツユダヤ人の血を引いており、さらに4代前の祖母は、純血のチェロキー族インディアンである。



1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。例え同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。エルヴィスは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。
全米ナンバー1獲得曲

ハートブレイク・ホテル (Heartbreak Hotel) 1956年 8週間連続1位

アイ・ウォント・ユーアイ・ニード・ユーアイ・ラヴ・ユー (I Want You,I Need You,I Love You) 1956年 1週間1位

ハウンド・ドッグ (Hound Dog) 1956年 11週間連続1位

冷たくしないで (Don’t Be Cruel) 1956年 11週間連続1位

ラヴミーテンダー (Love Me Tender) 1956年 5週間連続1位

トゥー・マッチ (Too Much) 1957年 3週間連続1位

恋にしびれて (All Shook Up) 1957年 9週間連続1位

テディ・ベア (Teddy Bear) 1957年 7週間連続1位。エルヴィスは「なぜこんな曲が7週No.1になったのか」と疑問に思ったという

監獄ロック (Jailhouse Rock) 1957年 8週間連続1位

ドント (Don’t) 1957年 5週間連続1位

冷たい女 (Hard Headed Woman) 1958年 1週間1位

恋の大穴 (A Big Hunk o’ Love) 1959年 2週間連続1位

本命はお前だ (Stuck On You) 1960年 4週間連続1位

イッツ・ナウオア・ネバー (It’s Now or Never) 1960年 5週間連続1位

今夜はひとりかい? (Are You Lonesome Tonight?) 1960年 6週間連続1位

サレンダー (Surrender) 1960年 2週間連続1位

グット・ラックチャーム (Good Luck Charm) 1961年 2週間連続1位

サスピシャス・マインド (Suspicious Minds) 1969年 1週間1位

その他

フール・サッチ・アズ・アイ ((Now and Then There's) A Fool Such as I)1959年 全米2位、全英1位

好きにならずにいられない (Can’t Help Falling in Love) 1961年 全米2位、全英1位

心の届かぬラヴ・レター (Return to Sender) 1962年 全米2位、全英1位

イン・ザ・ゲットー (In the Ghetto) 1969年 全米3位、全英1位







結婚そして離婚

1967年5月1日には、ラスベガスアラジンホテルプリシラアン・ボーリューと結婚。プリシラはエルヴィスのドイツでの所属部隊長の継子であった。エルヴィスは母親と継父に未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に彼女を同居させ、有名なカソリック女子高に通わせて、きちんと卒業させるということを約束してプリシラメンフィスで暮らせるようにした。しかし、程なく二人はグレイスランド一緒に暮らすようになっていく。8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。



その4年後、結婚前から続いているエルヴィスの生活習慣(昼と夜が逆転した生活、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、彼女は空手教師のもとに走り、二人の結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラリサ・マリーを引き取り、ロサンジェルスに住居を移す。1973年10月9日に正式離婚。



離婚後もエルヴィスとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。エルヴィスがツアーロサンジェルスにいるときは、彼女の家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、二人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていた。リサとエルヴィスは頻繁に会っていたようだ。彼が死んだその日もリサはグレイスランドにいた。



出演作品

32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。



やさしく愛して Love Me Tender (1956年)

さまよう青春 Loving You (1957年)

監獄ロック Jailhouse Rock (1957年)

闇に響く声 King Creole (1958年)

G.I.ブルース G.I. Blues (1960年)

燃える平原児 Flaming Star (1960年)

嵐の季節 Wild in the Country (1961年)

ブルー・ハワイ Blue Hawaii (1961年)

夢の渚 Follow That Dream (1962年)

恋のKOパンチ Kid Galahad (1962年)

ガール!ガール!ガール! Girls! Girls! Girls! (1962年)

ヤング・ヤング・パレード It Happened at the World's Fair (1963年)

アカプルコの海 Fun in Acapulco (1963年)

キッスン・カズン Kissin' Cousins (1963年)

ラスベガス万才 Viva Las Vegas (1964年)

青春カーニバル Roustabout (1964年)

フロリダ万才 Girl Happy (1965年)

いかすぜ!この恋 Tickle Me (1965年)

ハレム万才 Harum Scarum (1965年)

フランキーandジョニー Frankie and Johnny (1966年)

ハワイアンパラダイス Paradise, Hawaiian Style (1966年)

カリフォルニア万才 Spinout (1966年)

ゴー!ゴー!ゴー! Easy Come, Easy Go (1967年)

ダブルトラブル Double Trouble (1967年)

ブルーマイアミ Clambake (1967年)

ステイアウェイジョー Stay Away, Joe (1968年)

スピードウェイ Speedway (1968年)

バギー万才 Live a Little, Love a Little (1968年)

殺し屋の烙印 Charro! (1969年)

トラブル・ウィズ・ガール The Trouble with Girls (1969年)

チェンジ・オブ・ハビット Change of Habit (1969年)

エルビス・オン・ステージ Elvis: That's the Way It Is (1970年)

エルビス・オン・ツアー Elvis on Tour (1972年)