スピードスケート男子500メートルの長野五輪金メダリスト、清水宏保涙の引退記者会見

グレーのスーツに身を包み、清水は何度も声を詰まらせながら現役に別れを告げた。



 −現役を振り返って。



 「短く感じる。スケートは僕のすべての土台で人生そのもの。自分を育て、支えてくれた人にお礼を言いたい。大きい選手が強いという固定観念を覆したかった。それができた自負はある」



 −一番の思い出は。



 「長野五輪出場の内定をいただいてから本番までの2年半は、金メダルを絶対に取らないといけない状況で本当に苦しかった。重圧の中で結果を残せた達成感は何物にも替え難い」



 −長く続けた理由は。



 「トリノ五輪で惨敗して潮時かと感じたが、周りから続けてくれと言われた。バンクーバーまでやってやめようと思っていた。500メートルにおける最高の滑りを追究してきた。ただ、僕がバンクーバー五輪に出ていたとしてもメダルに届く実力はなかった」



 −五輪で後輩が活躍。



 「長島、加藤が銀、銅のメダルを取るのを間近で見られたことは幸せだった。唯一の心残りは(500メートルで)33秒台を出せなかったこと。後輩たちが夢をかなえてくれると信じている」



 −今後は。



 「指導者になるとは決めていない。勉強しないと通用しない。父は小さな会社を経営していた。何か起業したいという希望もある。その中で、選手たちを支援できれば」


清水 宏保 長野オリンピックで金メダル youtube

★清水 宏保(しみず ひろやす、1974年2月27日 - )は、北海道帯広市出身のスピードスケート選手。株式会社コジマ所属。身長は162cm。



経歴

実家は建設会社。葵幼稚園、帯広市立栄小学校帯広市帯広第一中学校白樺学園高等学校を経て、日本大学文理学部を卒業。三協精機(現:日本電産サンキョー)、NECを経て、現在は株式会社コジマ所属(プロスケーター)。



1993年2月、イタリア・バゼルガディピネで行われたスピードスケートW杯に18歳で初出場し初優勝という快挙を達成。その直後の世界スプリント=群馬県伊香保では総合3位に入り、小柄な世界トップスケーターとして注目を集める。



1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレイクシティオリンピック2006年トリノオリンピックと、4度の冬季オリンピックに出場している。長野では500mで日本のスピードスケート選手としては初となる金メダル、1000mでも銅メダルを獲得、ソルトレイクシティの500mでもトップと0.03秒差の銀メダルを獲得した。ワールドカップ(W杯)通算優勝回数は34回である。



金メダルを獲得した長野オリンピック直後の1998年4月、清水は所属していた三協精機を退社し、日本で初めての「プロ」(スピード)スケーターとなることを宣言。半年後にNECスポンサーとして名乗り出る。同社と社員契約を結ぶ一方で、複数の企業とスポンサー契約を交わすプロアスリート活動を始めた。



1993年の世界デビュー以降、10年以上にわたって日本スケート界を牽引してきたが、2005年の世界距離別選手権で2位になったのを最後に世界では目立った成績を残せなくなった。男子短距離では、加藤条治及川佑長島圭一郎など「ポスト清水」と言われる世代が実力をつけたこともあり、選手としての去就に関心が集まるようになる。2008年3月限りで契約していたNECを退社、新たにコジマと契約を結んだ。



2009年12月に長野市エムウェーブで開催されたバンクーバーオリンピック代表選考会で500m7位、1000m9位に終わって代表を逃し、「去就については改めてコメントしたい」と語った。マスコミでは「現役引退の決意を固めた」と報じられた[1]。2010年2月19日、今シーズン限りでの現役引退が所属するコジマより正式に発表された。3月5日に引退会見を開き、バンクーバーオリンピックの代表選考が終わった際に引退を決意したと述べた。選手生活については「たくさんの人に支えられ、幸せなスケート人生だった」「唯一の心残りは(500mで)33秒台を出せなかったこと」と振り返り、今後については未定としながらも「いろいろ勉強して、メダルを目指す選手にアドバイスする立場になっていければ」と話している[2][3]。



2009年12月、モデルの高垣麗子との交際が、お互いのブログにより公表された。2010年春、入籍予定。



選手としての話題

持病 [編集]

幼少の頃より気管支喘息を持つ。喘息をうまくコントロールして五輪に出場しメダル獲得までをも果たしたスポーツ選手として、代表的な長期管理喘息治療薬の発売元であるグラクソ・スミスクライン社宣伝に起用されているほか、喘息関係の学会などにも招聘されている。



トレーニングと道具

固定自転車により失神寸前まで追い込むトレーニングをおこなっていた。また、自らが使う道具、特にスケート靴に強いこだわりを持つ。長野五輪前にはスラップスケートの靴底にカーボンファイバーを使い剛性を高めることを思いつき、「カーボンファイバーに関する高い加工ノウハウを持っている」との理由から、本来レーシングカー製造会社である東京R&Dに特注してカーボンファイバー製のスケート靴を作らせたほどであった(長野五輪ではその東京R&D製のスケート靴を使用し金メダルを獲得している)。



日本初のプロスケーター

上記の通り、1998年にプロ宣言をおこなう。スピードスケートをメジャースポーツにすることを望んでいた清水は、不況により企業のスケート部が相次いで消滅している現状を憂えていた。清水のこの行動は、スケートのみに集中できる環境を作るのと同時に、企業が選手を抱え込む現在のスケート界の体質にも一石を投じるものであった。



500m世界記録

1996年3月カルガリーにおいて35秒39の男子500m世界新記録を樹立。スプリント競技は長身選手に有利というそれまでの常識を覆し、この種目の第一人者となる。その後も記録更新を繰り返し、一時期ジェレミー・ウォザースプーンに抜かれるものの、2001年3月10日世界距離別選手権=ソルトレイクシティにおいて自身4度目の記録更新となる34秒32を記録し、世界記録保持者に返り咲いた。この記録は、2005年11月に加藤条治(34秒30)に破られた(現在の世界記録はジェレミーウォザースプーンの34秒03)。