三原じゅん子攻撃の矛先を谷氏から蓮舫行政刷新担当相(42)に変える

参院選後初めての臨時国会が30日開かれ、真新しいバッジを着けた新人議員らが降りしきる雨の中で初登院。35万票余りを獲得して当選した五輪柔道金メダリスト谷亮子さん(35)=民主、比例=は国会議事堂背景に記念撮影。選手と“二足のわらじ”となることについては「国民のために一生懸命務めたいという気持ちに変わりはない」と強調した。



 一方、「二足のわらじを履けるほど甘くない」と谷氏に批判的な元女優、三原じゅん子さん(45)=自民、比例=はわずか5分遅れのニアミス状態で登院。結局、国会内でも接触はなく、初の直接対決はまたもおあずけとなったが、理想の議員像を聞かれ「バサバサ切っていく強い議員もいるが、わたしは常に血の通った議員でいたい」。攻撃の矛先を谷氏から蓮舫行政刷新担当相(42)に変えて意気込みを語った。


★三原 じゅん子(みはら じゅんこ、本名:三原 順子(読み同じ)、1964年9月13日 - )は、東京都板橋区出身の実業家、元女優、元歌手、元カーレーサー社会福祉法人理事長。以前は本名で活動。血液型はB型。2010年7月26日から参議院議員となる。



来歴・人物

1964年9月13日東京都に生まれる。1971年、私立淑徳小学校に入学。翌1972年、東京宝映テレビ・劇団フジに入団。入団まもなく、劇団フジ定期公演「青い鳥」に出演。続いて「マッチ売りの少女」の主役に抜擢される。



1975年、第29回定期公演で「強制収容所の少女」の主役シズエを演ずる(ダブルキャスト大場久美子)(4年後の第43回公演に於いて再びシズエ役を演ずる)。1977年、私立十文字学園中学に入学。1979年、テレビ朝日系ドラマ『燃えろアタック』(主演は歌手の荒木由美子)への出演が始まる。本格的な連ドラは『燃えろアタック』がデビュー作になる。 学校が芸能活動を許していなかったため、2年2学期に自主退学し、板橋区立志村第一中学校に転校する。



1979年、『3年B組金八先生』に出演し、第13話以降「山田麗子」役で役柄からの「つっぱり」のイメージで人気が急上昇した。リンチをするシーンでは自分では殴らず大人数を指揮し、「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフは有名となり、三原を表す代名詞になった。



1980年、明治大学付属中野高等学校に入学。同年に歌手デビュー。以降、1986年までコンスタントにシングルを発表した。ビーイング創設者の長戸大幸が作曲したデビューシングル「セクシー・ナイト」は売り上げ30万枚を超えるヒットとなり、同時期の「マルベル堂プロマイド人気」では第1位となった。当時は山口百恵引退直後だったため、“ポスト百恵”と言われた。同期歌手デビューには『3年B組金八先生』で共演した田原俊彦のほか、松田聖子河合奈保子柏原芳恵岩崎良美浜田朱里甲斐智枝美らがいる。1982年には「だって・フォーリンラブ・突然」のロングヒット第33回NHK紅白歌合戦出場、「ホンキでLove me Good!!」で紅組トップバッターを務めた。



1983年8月、裏本「JUNKO」がベストセラーに。いわゆるアイコラであり、会見で「ぶっとばしてやりたいです」と怒りを露にした。



1984年、20歳の誕生日を機に本名の「三原順子」から現在の「三原じゅん子」へ芸名を改める。また、JUNKOというアーティスト名でハードロックのバンドを組み、ライブ活動をしていた時期もある。



1987年から1999年にかけては、カーレーサーとしても活動。国際B級ライセンスを持つ。レース中の事故による骨折も7回経験しているという。2005年からはレーサー時代の経験を活かし、二輪レースチーム「weave×MIHARA PROJECT」のオーナー兼監督を務める。



その後は「ケントス」等でライブ活動の傍ら、バラエティ、女優業に幅広く活動した。 1987年以降、テレビドラマでは主に2時間ドラマでの犯人役や悪ぶった役で中途で殺されるような脇役が中心であったが、1999年のNHKすずらん』、『ファイト』などでは、三枚目的な役柄も演じている。



2008年、子宮頸癌を患い子宮を摘出したが、リハビリを経由して復帰した。この経験もあり、医療や介護問題への関心を強め、がん撲滅等の啓発活動を行うようになった。2010年3月には自ら介護施設の経営に乗り出す。



2010年4月8日、第22回参議院議員通常選挙自民党から、比例区出馬すると記者会見で発表。この立候補は党からのスカウトでなく自ら名乗り出たものであることを明らかにした。また、「二足のわらじを履けるほど国会議員の仕事を甘くは考えていない」とし当選した場合は女優を引退すると表明。当選を果たし、公言通り芸能界を引退する。



政治的主張

保守本流派である。具体的には、前述のように自らががんで子宮を失った経験から特にがんの予防・がん患者への福祉および不妊治療への対策に強く力を入れており、子宮頸がんワクチン接種無料化、不妊治療への保険適用、がん患者への公的支援の充実などの医療制度改革を主張。また、実父が長年要介護状態にあったことや自身が老人介護施設を経営した上での経験から、介護福祉士ホームヘルパーの処遇の改善など社会福祉政策における高齢者福祉の充実も主張している。社会保障政策については、少子高齢者時代における福祉の充実のための消費増税もやむなしの立場である。経済政策においては、ケインズ主義にもハイエクミルトン・フリードマン新自由主義のいずれの立場にも立たない日本社会に合った、中庸の道を目指すとしている。景気回復のための財政出動、その結果としての財政健全化の達成、深刻な失業問題非正規労働者問題としての同一労働同一賃金の達成、成熟経済時代の日本社会における新たな雇用の創出を訴えている。また、野田聖子とは議員当選以前から交流が深い。