紫綬褒章を受章の女優池内淳子が26日、肺せんがんのため死去76歳。東京都出身

テレビドラマ、映画に数多く出演し、舞台も活躍した女優、池内淳子(いけうち・じゅんこ、本名・中沢純子=なかざわ・すみこ)さんが26日、肺せんがんのため死去した。76歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く。



 昭和29年、友人の勧めで「サンケイグラフ」のカバーガール募集に応募し、当選したのがきっかけで映画会社新東宝に入社。翌年、「皇太子の花嫁」でデビューし、31年には東映高倉健日活石原裕次郎らと第1回日本映画製作者協会新人賞を受賞した。しかし女優としての飛躍をもたらしたのは在社中から出演していたテレビで、35年に主演したフジ昼ドラマ日々の背信」が茶の間の主婦をくぎ付けに。よろめきドラマブームの口火を切り、一躍、スターダムにのし上がった。




 その後、映画では森繁久弥主演の喜劇「社長シリーズ」「駅前シリーズ」で芸者役を演じる一方、松本清張原作「けものみち」ではシリアスなヒロインを演じるなど、多くの作品に出演。40年のTBSテレビ「女と味噌汁」のヒットを機に、高視聴率女優としての地位を確立した。44年、「天と地で」で舞台初出演した後、舞台女優としての道を目指して、大空真弓と「五月の会」を結成。代表作に「女と味噌汁」「おさん」「華岡青洲の妻」などがある。



 今年5月、名古屋市中日劇場で舞台「三婆」に出演するなど、最近まで芸能活動を続けていた。




 私生活では32年、ボードビリアン柳沢真一氏と結婚したが、翌年、スピード離婚。以後、独身を通した。平成14年、紫綬褒章芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。


池内 淳子(いけうち じゅんこ、本名:中沢 純子、1933年11月4日 - 2010年9月26日)は、日本の女優。

経歴・人物

山本富士子と同じく和服の似合う上品な美貌の持ち主で1960年代から1970年代まで、テレビドラマの女王として君臨した。東京市本所区両国(現・墨田区両国)生まれ。トモエ学園を経て、1952年に十文字高等学校卒業。血液型はO型日本舞踊水木流家元栗島すみ子の弟子であり、名取「水木紅澄」でもある。



高校卒業後、日本橋三越に入社(配属された呉服売り場に後の女優・前田通子もいた)。そこで二人の美貌が評判となる。1年余り勤め退社、花嫁修業のため和裁と料理の学校(日本女子割烹専修学校(現・池袋調理師専門学校))へ通い「サンケイグラフ」のカバーガール募集に応募して合格。関係者の目に留まりスカウトされ、新東宝に入社。偶然にも前田と再会した。『皇太子の花嫁』で映画デビュー。続く清水宏監督の『次郎物語』で姉役を熱演し注目される。以来高島忠夫宇津井健の相手役として多くの作品に出演。



1956年に『新妻鏡』で初主演。久保菜穂子三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びる。その間、俳優の柳沢真一と結婚し、1957年に一時芸能界を引退、翌年に離婚して復帰。だが結婚に反対した新東宝社長の大蔵貢から冷遇され、復帰後は不本意な役も泣く泣く引き受けなければならなかった。



1960年、ドラマ『今日を生きる』に主演。平行してドラマ『日日の背信』(丹羽文雄原作、共演:原保美)にも主演。後者は昼ドラマにも関わらず驚異的な高視聴率を記録、人気女優として名を轟かす(しかし、テレビドラマを「電気紙芝居」と蔑んでいた大蔵貢はこの事が気に食わず、池内を映画では端役出演に格下げし、所属も大部屋にするなど横暴な事をした)。一方、新東宝はすでに経営が悪化しており、同年の9月16日と10月4日には24時間ストライキが決行され、同1960年12月1日、大蔵貢は辞任に追い込まれた。その後の再建工作も空しく、翌1961年8月末日、新東宝は負債総額7億8千万円(当時)を抱えて倒産。



その後は東宝に移籍し映画にも本格的に復帰。『社長シリーズ』、『駅前』シリーズ、『花影』、『けものみち』などに出演。また、テレビドラマにも主演し大活躍。よろめきドラマ(=現在の不倫ドラマ)には欠かせない存在として人気を集めて日本放送作家協会女性演技者賞を受賞。「お嫁さんにしたい女優」でも上位にランクインし、人気・演技力ともTV女優No.1の地位を確立した(「女と味噌汁」シリーズは好評で毎回高視聴率を誇り、代表作に。毎作20%以上の視聴率を獲るため20%女優とも言われた)。また、1974年から1980年にかけて、日本テレビとテレビドラマ出演のための専属契約(特例条件としてTBS『東芝日曜劇場』と映画の出演は可)をしていた。



1966年3月、第8回マルデルプラタ映画祭出席のため、南米アルゼンチンを訪れている。



プロ野球東京讀賣巨人軍ファンであることでも知られ、『ミスタージャイアンツ 勝利の旗』(東宝映画)では川上哲治広岡達朗藤田元司国松彰長嶋茂雄王貞治等、当時の巨人軍選手と共演したこともある。また旧後楽園球場東京ドームに年間ボックスシートを購入していたことも明かしている。



2002年、紫綬褒章を受章。



2007年4月、胸の違和感を訴えて検査入院した処、間質性肺炎胸水貯留、肺腫瘍の診断が下され、約3か月の安静加療が必要となった。その為、同年5月25日から予定されていた『怪談牡丹燈籠』の全国公演を降板することを発表(代役水谷八重子)。治療の難しい病気だけに、無事退院出来るかどうかが懸念されていたが、6月に退院。8月中旬からは民放の単発ドラマで仕事復帰することになった。



2008年4月、春の叙勲で旭日小綬章を授けられることが日本政府より伝達された[4]。2009年11月、天皇陛下御在位二十年記念式典に出席した。同式典において、今上天皇と皇后が関心を持つ分野の代表者の一人として、池内が紹介された。



2010年に入っても同5月16日まで名古屋中日劇場で舞台『三婆』に出演していたが、約4ヶ月後の同9月26日午後4時26分、肺腺がんのため東京都内の病院で死去。76歳没。



池内の逝去の報を受け、大空眞弓は「お別れが早すぎます」と哀悼の辞を述べた