種子島親善大使上原美優「感動」皆既日食&セクシー写真集

大家族で知られる貧乏アイドル上原美優(22)が22日、故郷の鹿児島種子島で日本で46年ぶりに見られる皆既日食を観測。サンケイスポーツの電話取材に、「人生初の体験! 感動しました!」と、その興奮を告白した。

 島内皆既日食が見られる数少ないエリア南種子町の公園に、気合を入れて午前7時から待機していた上原は「小雨が降ったり止んだりでしたけど、9時半ごろから徐々に空が真っ暗になってきて…そのまま2〜3分、太陽が見えなくなったんですよ」と回想。「雨で、ちゃんと日食は見えなかったのは残念でしたけど」と感動を振り返った。



 上原はこの日、種子島親善大使に任命され、同島北部西之表市で行われた任命式に参加。10人兄弟の6女として15歳まで中種子町で過ごしており、「種子島は私の原点。親善大使として、この島に恩返ししたい」とあいさつした。



 そんな思い出の地でオールロケを敢行した写真集「はれ、ときどきナミダ」(東京ニュース通信社、2800円)も、この日発売。同写真集の発売記念イベントは、8月2日午後4時半から東京・銀座の福家書店で。

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★上原 美優(うえはら みゆ、本名:藤崎 睦美、1987年5月2日 - )は、鹿児島県種子島熊毛郡中種子町)出身の女性タレントグラビアアイドルである。所属事務所はプラチナムプロダクション。愛称は「みゅうみゅう」。

出身地 日本 鹿児島県熊毛郡中種子町

血液型 A型

公称サイズ(2009年時点)

身長 / 体重 152 cm / 38 kg

BMI 16.4(低体重)

スリーサイズ バスト 80cm -ウエスト 55cm -ヒップ 80 cm

ブラのサイズ D カッ

靴のサイズ 23.0 cm



人物・来歴

今でこそ『貧乏アイドル』として貧乏エピソードを明るく話し、事務所の看板タレントの一角までに成長したが、芸能界デビューまでは波乱万丈の人生を送っていた。また田村裕島田洋七浜田ブリトニーが作り上げた貧乏自慢ブームに便乗しているとの声も少なくない。



誕生から高校進学まで

1987年5月2日、10人兄妹 (4男6女) の末っ子として生まれる。本名の睦美は六女であることから。この時父親は55歳、母親は43歳だった。出生場所はパチンコ屋駐車場。母親が大当たり中に破水したが、大当たり中のため出ていた頭を一度引っ込めた[2]。 父親が母親を駐車場まで運んだところで産まれた[3]。母親から良い娘と思われ可愛がれ母親から怒られた事がない。母親から外見で評価されている。



家は大家族の為貧しく、「下着が足りずノーパンで通学した」「種子島宇宙センターからロケットが打ち上げられるときには家が揺れるので家族全員で家具を支えた」などのエピソードがある[4]。また、種子島ではおやつ代わりに草を食べていたが、東京でも食べたところ不味く、東京の草は不味いと怒っていた[2]。また、今でも花を見ると綺麗かどうかより「食べられるかどうか」最初に考えるという。



15歳になったら独立する家の決まりがあるが、この理由について「家が貧乏だから」と思い込んで両親を恨み[5]、両親に黙って鹿児島市の高校に進学、先に鹿児島に住んでいた姉の家に身を寄せ、自ら学費を稼ぎながら通学する[4]。だが学校に馴染めずクラスから浮いてしまい、学費を稼ぐためのアルバイトも「夜働いている」「遊びまくっている」など事実無根の噂が立つこととなる。そして、帰り道に2人組の男に襲われる「最悪の出来事」が起き、、翌日に高校を退学処分となり、程なくしてレディースに加入する。



高校中退から芸能界デビューまで

見かねた姉の勧めによりレディースから抜けようとするも、他のメンバーから袋叩きに遭う。そして、姉のレディースへの必死の説得により脱退を許される。その直後、姉の呼びかけで東京に移る。芸能事務所の面接を受けるが、前述の袋叩きで傷だらけの顔の上原を見た面接官はビックリするが、何とか合格する。



その後姉が上原の新しい服を買った際、今までの服を全部捨てた事を知った上原は、怒って姉に暴行を加えた事もあった。また、20歳のときには恋人に振られた寂しさから睡眠薬自殺を図ったが、一命を取り止めた。
18歳より上野のキャバクラに勤務。



仕送りとして家に5000円を送っていたが、後に母から「自分で稼いだお金だから自分で使いなさい」と通帳を手渡され、兄や姉の仕送りも、妹達が自分達みたいな苦労をして欲しくないとの理由であった。上原の新しいランドセルや洋服は全て兄や姉からのプレゼントである事をこの時知った。自分がテレビに出るようになってバラバラだった家族がひとつになったと語っている[2]。



2006年、桜井ひな藤崎まやと共にフォーミュラ・ニッポンディレクシブレーシングガールズ」としてレースクイーンデビューをするが、チームの突然の撤退により第5戦までで活動終了。 2007年、「sabraブロガール選手権」出場。その後ブランクもあったが、2008年夏頃からテレビのバラエティ番組にも多数出演するようになり、現在に至る。



2009年5月には自叙伝である『10人兄弟貧乏アイドル☆ 私、イケナイ少女だったんでしょうか?』が出版される。「泣きながら書いた」[4]という家族にも黙っていた体験を綴っている。



しかし、その母が2010年3月29日に亡くなっている。仕事で最期を看取れずも、家族全員で揃って葬儀を終えた。



エピソード

趣味は買い物映画鑑賞。特技はトランペット頭突き。頭突きについては笑っていいとも!(出たいドル)出演時に生放送スイカに頭突きを食らわせ、『ぷっ』すま出演時ではその破壊力で江頭2:50を一発でギブアップさせたり(その後出血していた)、ダチョウの卵を頭突きで割って見せた。これは、大家族の生存競争で生き残るには喧嘩に強くならなければならないと思い、自分に何が出来るかと考え、頭突きしかないと結論付け、自宅近くの海岸のテトラポッドに頭を打ち付けて鍛えた[2]。また、自分の気管を手で掴んで左右に動かすと云う技ももっている。

29歳離れている長兄には生まれてから2回しか会ったことが無い[3][5]。そのため、電話などで敬語で話していたが、最近お兄ちゃんと呼べるようになって、兄も本人も喜んでいる[2]。上の兄弟が既にそれぞれ家庭を持ち子供がいるため人数が多すぎて実家に一度に集まることが不可能なため10人全員が顔を合わせることがなかった、というエピソードも度々語っているが、2010年3月に母が急死した際に初めて全員が集合し記念撮影をしたという。

目標とするグラビアアイドルは事務所の先輩。7番目の姉(兄妹の上から7番目)はミス種子島に選ばれた。

種子島出身、大家族、貧乏などのエピソードを売りとしており、東京に出て一番驚いたのは水道料金の請求書が届いたことであった。実家では父の掘り当てた井戸から給水を行っており、水に料金を支払う感覚がなかったため、水道料金の請求書を見たとき、振り込め詐欺違いないと感じた[9]。またロケ弁で生活していると語っている。

血液検査にて細胞のキャップの長さで寿命がわかるというので検査したところ61歳だった[10]。

好きなタイプは「顔」がすべてだと思っていて、今まで一目ぼれして2人と付き合った。が、最近は「顔」じゃないと気づき、子供がたくさん欲しい(自分が10人兄妹なのでそれより多い11人授かりたいと語っている[4])ので、性欲の強い人がいいと思っている

背中の毛が濃く、3日に一度くらいで剃らなくてはならず、やばくなったら7番目か9番目の姉を呼んで剃ってもらっている。

種子島では裸足で歩いたりしてたが、東京では危ない物がたくさんあって、靴を履かなきゃいけないことに衝撃を受けた。

東京でタクシーに乗った時、高速料金を知らず、メーターの料金と請求の料金が違ってタクシーの運転手と本気でケンカした。

将来の夢はテレビにたくさん出て種子島に家を建てること。

メイク時とすっぴん時のギャップが激しい事を自らネタにしており、寝起きの顔を彼氏に「工場長に似ている」と言われたエピソードを語っている。また明石家さんま学生時代の写真をえなりかずきのようだと評した。

チャームポイントはお尻。

2010年2月28日には東京マラソン2010に参加。しかし悪天候と故障している足による影響で意識を失い、スタートから25km地点リタイヤした。上原はレース前に、「“ゴールさえすればいい”とちゃらいことを言っていた西尾には負けたくない」と西尾由佳理を挑発する発言をするが西尾は完走し、上原はリタイアという結果となった。