本田圭佑得点王を狙う南アW杯初の8強へ高らかに宣言す「神様、仏様、本田様」

本田 得点王狙う!初の8強へ頼もし宣言 



 MF本田圭佑(24=CSKAモスクワ)が、29日(日本時間29日午後11時キックオフ)の決勝トーナメント1回戦・パラグアイ戦(プレトリア)で2ゴールを奪うことを誓った。




 24日のデンマーク戦では華麗な先制FK弾を決めて勝利に貢献したが、試合終了間際に決定機を外すなど2点目を奪えず不完全燃焼。自らに2得点を課すことでチームを史上初の8強入りへと導くとともに、W杯得点王争いにも名乗りを上げる。



 岡田ジャパンの快進撃を支える本田に、浮かれる様子はみじんもなかった。パラグアイ戦に向け、26日に再開された全体練習は、レクリエーション的要素を含んだサッカーバレーでの練習となったが、本田の表情真剣そのもの。ボール感触を確かめながら、パラグアイ戦でのゴールイメージを膨らませた。



 「(デンマーク戦のゴールは)うれしかったけど、思っていたほど喜べなかった。2点目を取る…そういう課題があるので、しっかりやりたい」



 1次リーグ初戦のカメルーン戦に続き、デンマーク戦では先制FK弾を決めた。だが、その後は何度も得点のチャンスがありながら、ついに2点目を奪うことはできなかった。特に試合終了間際の後半49分には左サイドからドリブルで中央に切り込んで右足でシュートを放ったが、枠をとらえきれず。他国開催のW杯では初の決勝トーナメント進出を決めながら、素直に喜べなかった背景には、決定的なチャンスを決めきれなかった悔しさがあった。



 だからこそ、パラグアイ戦では2点を奪いにいく。決勝トーナメントは90分で決着がつかなければ、延長戦、PK戦へともつれ込むことになる。走り回るサッカースタイルをとる日本だけに長丁場は避けたいところ。きっちり90分で決着をつけるためにも、本田は1点でも多くゴールを狙いにいく覚悟でいる。


★本田 圭佑

本田 圭佑(ほんだ けいすけ、1986年6月13日 - )は、大阪府出身のプロサッカー選手ロシアリーグCSKAモスクワ所属。ポジションは主にミッドフィールダー(OH、SH、ST)。





愛称 ケイスケ

カタカナ ホンダ ケイスケ

ラテン文字 HONDA Keisuke

基本情報

国籍 日本

生年月日 1986年6月13日(24歳)

出身地 大阪府摂津市

身長 182cm

体重 76kg

血液型 AB型

在籍チーム PFC CSKAモスクワ

ポジション MF

背番号 7

利き足 左足

クラブチーム1

クラブ App (G)

2004-2007

2008-2009

2010- 名古屋グランパス

VVVフェンロー

CSKAモスクワ 90 (11)





来歴

小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始めた。中学生時代にはガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博安田理大らと共にプレーしたが[1]、ユースチームへの昇格の内定が出なかったため、石川県星稜高校へと進学した[2]。1年時に全日ユース選手権で準優勝し、3年時の第83回全国高等学校サッカー選手権大会では石川県勢としては初のベスト4入りの原動力となった[2]。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスエイトの練習に参加し、ナビスコカップなどの公式戦にも起用され数試合出場を果たした。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが、獲得は見送られた。



名古屋グランパスエイト

高校卒業に際して複数のJリーグクラブから勧誘を受けたが[2]、2005年シーズンから名古屋とプロ契約を結んだ。名古屋入団時の契約では本人の希望により「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項も既に盛り込まれていた[4]。開幕戦から先発出場しアシストを決め、翌年にはレギュラーに定着した。2005年のFIFAワールドユース オランダ大会に日本代表として参加。初戦オランダ戦に守備的な中盤として先発したが[5]、試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となった(後半19分、水野晃樹。結果は1-2で敗戦)。この後チームは16強に進出するものの、守備的な中盤梶山陽平の復調もあり出場機会はなし。2006年にはA代表にも飛び級で初招集されたが出場はなかった。2007年北京五輪アジア予選では主力として五輪出場権獲得に貢献した。



VVVフェンロ

2008年1月にさらに高いレベルでのプレーを求めてエールディビジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンロへ移籍した。入団会見ではオランダ語で挨拶を行い、その日のうちに昨シーズンまで名古屋の監督を務めていたセフ・フェルホーセンが率いるPSVアイントホーフェン戦に出場している。残りのシーズンはレギュラーとしてプレーしたものの、5月にクラブのエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。2008年6月に開催されたワールドカップ・アジア地区3次予選のバーレーン戦でA代表初出場を果たした。8月に行われた北京オリンピック本大会では中盤の主力として一次リーグ3試合すべてに出場、谷口博之梶山陽平らと共に攻撃を牽引したが、チームは3連敗で決勝トーナメント進出を逃し、自身もオランダ戦で決勝点となるPKを与えてしまうなど不本意な大会となった。同年7月には元保育園勤務の女性と入籍していたことを発表した。 2008年-2009年シーズンは2部に降格したVVVに残留した。チームでは攻撃の軸として活躍し、開幕から首位を独走するチームの原動力となった。シーズン途中からはフリーキッカーとキャプテンを任されている。4月24日の対ハーレム戦に勝利し、2部優勝と1部復帰が決定した。リーグ戦計36試合に出場した中で16ゴール13アシストをあげた活躍が評価され、2部リーグにおける年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した。シーズン終了後にはPSVアヤックスなどオランダ強豪チームに加え、チェルシーリヴァプールリヨンフィオレンティーナといった世界的ビッグクラブへの移籍が検討されたが、クラブが1000万ユーロ(約13億円)と高額の移籍金を設定したため交渉はまとまらず残留が決定した。 2009年-2010年シーズンもVVVで開幕を迎えることとなり、チームの中心として活躍した。2009年5月27日のキリンカップの対チリ戦では、A代表初ゴールを記録。冬の移籍市場において移籍金900万ユーロ(約12億円)、4年契約でロシアリーグの強豪PFC CSKAモスクワへの移籍が決まった。
CSKAモスクワ

2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦でCSKAでの初出場を記録。同時にチャンピオンズリーグにも初出場となった。3月12日のリーグ開幕戦であるアムカル戦では、試合終了間際の後半ロスタイムに決勝点となるゴールを決め、チームのシーズン初勝利に貢献。セビージャとのアウェーでの2ndレグでは、前半39分にCL初のアシストを、後半10分にはゴール約30mの位置から直接FKを決め、CL初得点をマーク。これが決勝点となり、2戦合計3-2でCSKAをクラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8へ導いた。この試合ではマンオブザマッチに選ばれ、さらに1stレグ2ndレグ共に欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選ばれている。



2010 FIFAワールドカップ

2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会日本代表に選出された。この大会ではそれまで経験のないセンターフォワードポジションに、大会直前に急遽配された。グループリーグ初戦のカメルーン戦では松井大輔のクロスから決勝ゴールをあげ、FIFA選定のマンオブザマッチに選出された[13]。第3戦のデンマーク戦では直接フリーキックから先制点を挙げ、岡崎慎司の得点もアシストし日本の決勝トーナメント進出に貢献。この試合でもマンオブザマッチに選出された。



評価・プレースタイル



ピッチに入る本田

2009年8月22日、FCフローニンゲン戦、得点を喜ぶ「基本的に小さい頃からサッカーは倒れたら負けというつもりでやってきた[15]」と本人も語っているが、日本人としては屈強なフィジカルを持ち、外国人選手との一対一でも当たり負けすることは少ない。キック力に優れ、スルーパス、ロングパス、シュートの能力、なによりフリーキック精度が高く、無回転とカーブする球を蹴り分けることができる。また全ての中盤のポジションと、サイドバック[16]も務めユーティリティ性に優れている。



日本代表では守備時の運動量の少なさを指摘されるものの、攻撃時にはゴール前へ飛び出すことが多い。これはプレーの効率性を上げるためメリハリを重要視しているためだという[17]。しかし、CSKAモスクワではボランチ起用が多く、走行距離もチーム内で1位2位を争うほどであり、2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会第一戦のカメルーン戦では、FWでありながらチーム内で2位となっており献身的なプレースタイルと変化している。なお、VVVフェンローでは、本田を攻撃の中心としたフォーメーション採用されていた。



VVVフェンローに移籍後はセンターハーフも務め、同僚のサンドロ・カラブロから「お前がゴールを決めているのはユーチューブYouTube)の中だけ」とシュート意識の低さに関して批判をうけた[18]後は「おれはゴール前だったら絶対パスは出さない。悪いけど、カラブロフリーであろうがなんだろうが、前が空いていたらシュートを打つ。そういうところは少しずつ意識改革ができている。おれもあいつらに“欲”という意味では負けているつもりはないし、もっとわがままにやってもいいのかなと思っている[19]」と自らゴールを狙っていく姿勢を強めたことを語っている。このような経緯もあり、近年はMFとしては非常にゴールが多い選手として知られているが、アシストも多く記録し、更に本田のシュートのこぼれ球を味方が押し込みゴールを奪うというケースも多々あり、VVV時代はチームの得点の大半が本田を起点とするものであった。



また、サポーターからの信頼も厚く、2009-10シーズン第2節のADOデン・ハーグ戦では、序盤0-2と劣勢に立たされながら本田の2ゴールで同点とした試合で、退場処分を受けながらなかなかピッチから出ようとしない相手選手に対し、本田が駆け寄り退場するように促した際、相手選手が激昂し本田の胸を突き、これをきっかけとし両軍入り乱れの乱闘となった。この時、サポーターから「HONDA! HONDA!」と大合唱が起きた。



左利きの選手は左サイドのポジションに位置するのが一般的であるが中に切り込んで左足でシュート打たせることを目的として、右寄りのポジションに位置させられることが多い。これは日本代表における中村俊輔と同じ位置であるためしばしば本田と中村が比較されることがある。また本人も中村から定位置を奪うという旨の発言をしていたが、右サイドハーフのポジションには中村が、そして本田はトップ下に入るという形で同時出場することもあった。W杯本戦では、岡田監督にフィジカルの強さと積極性を買われ、FWとして出場、中村は松井大輔にポジションを奪われており、同時出場とはならなかった。また、「自分には運がある」とも述べている。



人物

実兄で現在は俳優の本田弘幸も元サッカー選手で、2005年には大分トリニータ入団が決まっていたが怪我の為に現役生活を終えた。1964年の東京オリンピックでカヌー競技のカナディアンペアに出場した本田大三郎は大叔父であり、その息子でレスリングフリースタイルで3大会連続のオリンピック出場経験を持つプロレスラー本田多聞従兄弟違いになる。母親は広島の出身[21]。

2008年7月に元保育園勤務の保育士の女性と結婚後、オランダ時代には日本から連れてきた柴犬のテツと共に生活していた。

勝気な性格であり、その発言は時にビッグマウスともとられてしまう。北京五輪の予選リーグで敗退が決まった後の消化試合では数名の選手と共に反町監督の指示に造反していた事を明かし、メディアで物議をかもした。しかし、そのような背景にはサッカーに対する非常に高い向上心があり、これまでのインタビューでも、ガンバ大阪ユースに昇格出来なかった時の悔しさや、学生時代から常に世界で活躍するプロサッカー選手を見据えていたことなどを度々語っている。また後にこの造反劇に関しては本人が雑誌「Number」で事実ではないことを語っている。

我を押し通すことを信条とする一方、自己分析を行い批判を素直に受け入れるなど柔軟な一面も見せることがある。VVVフェンローではキャプテンとして存在感を発揮し、チームメイトからも一目おかれる存在であった。また海外でステップアップを重ねるためにはもっと自己主張をしなくては上り詰めることはできないと自分では自覚している、まだまだ自己主張は足りていないと語る。

プライベートでは、いつも両腕に腕時計をつけている。理由は「Classicを追い求めているため」というよくわからないもの。なお別の番組では理由を「ボディバランスを保つため」と語っていたが、これは本人によれば「ボケたつもりがツッコミを入れられず流されてしまった」ものだという。

サッカーだけでなく語学を学び、チームメイトと直接会話することを重視しており、オランダ時代は英語、現在のCSKAモスクワではロシア語を学んでいる。また海外のメディアに対しては通訳をつけず英語でインタビューに答えている。
■オマケ
本田圭介 神業無回転ミドルシュート Youtubeより

一言
勝戦では本田へのマークが厳しくなりそうなのでいっそう努力してもらいたいが、おとりにして別のストライカーを決める方法もある。
両面を考えて戦略を岡田さん練ってください。