クルム伊達公子40歳が第1シード世界ランク8位のサマンサ・ストーサー(26)を逆転で撃破4強入り
◆女子テニスツアー HPジャパン女子オープン第5日 ▽シングルス準々決勝 クルム伊達(5―7、6―3、7―6)ストーサー(15日・大阪市靱テニスセンター)シングルス準々決勝で、世界ランク56位のクルム伊達公子(40)=エステティックTBC=が第1シードで同8位のサマンサ・ストーサー(26)=オーストラリア=を5―7、6―3、7―6のフルセットで撃破し、4強入りを決めた。第1セットは落としたが、その後は鋭い洞察力で相手のサーブ時に「トスの位置でコースとかを読めるようになった」と、相手にペースをつかませず、フルセットに持ち込んだ。
40歳でのツアー最年長優勝を目指し、16日の準決勝で世界ランク13位のシャハー・ピアー(23)=イスラエル=と対戦する。
驚異の40歳が大金星をつかんだ。最後に相手の球がアウトすると、伊達は叫んで拳を握り締めた。“世界8位切り”は08年春の復帰後に倒した相手では最上位。伊達は「トップに勝ち切れたことは大きなステップになる」と胸を張った。
今季全仏オープン準優勝のストーサーは強烈なスピンサーブと男子並みの強打が武器。ラリーで左右に振られても、伊達は懸命に追いついて打ち合った。得意のライジングショットも切れを増し、フルセットのタイブレークまでもつれた2時間34分の激闘を制した。
40代でのツアー1大会3勝は史上初。40歳で優勝すれば、39歳7か月で優勝したビリー・ジーン・キング(米国)のツアー最年長V記録を超える。「気を引き締めて次の試合に備えたい」。伊達の目には頂点しか見えない。
伊達公子
基本情報
ラテン文字名 Kimiko Date
フルネーム Kimiko Date Krumm
国籍 日本
出身地 同・京都府京都市
生年月日 1970年9月28日(40歳)
身長 163cm
体重 53kg
利き手 右(本来は左)
バックハンド 両手打ち
伊達 公子(だて きみこ、本名:クルム 伊達 公子(クルム・だて・きみこ)、1970年9月28日 - )は、日本の女子プロテニス選手。京都府京都市上京区出身。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした選手である。現役復帰後の所属はエステティックTBC。
人物
「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手であった。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。
4大大会で女子シングルス準決勝に3度進出し、これを含めて4大大会でのシングルスベスト8入りは6回にのぼり、準決勝進出・ベスト8入りとも日本女子選手歴代最多記録である。彼女はすべての4大大会でベスト8入りした最初の日本人女性でもある。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス33位。これまでにWTAツアーでシングルス8勝、ダブルス1勝を挙げる。
本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。日常生活でも、サインの時などに左手を用いることがある。
大津市立瀬田南小学校-大津市立瀬田中学校(在校時バレーボール部)-園田学園高等学校卒業。
2001年にドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚し、名前が「クルム伊達公子」となった。略称は「クルム伊達」。
●伊達公子公式ブログ
http://ameblo.jp/kimiko-date/
Stosurとの初めての対戦は勝ちました。
今はさすがに当然ですが疲れました。
やはりStosurのキックサーブ、
フォアーのスピンボールに苦しめられました。
でも跳ねる前になんとしてでもボールを処理することを
終始心掛けました。
コートの外へ走らされることも多々ありました。
何度もサイドのスペースが足りなくボードにぶつかってしまうことも。
サービスはバックへのキックだけでなく
ワイドもありどこにでも打ち込んできます。
ネットプレーに持ち込んでも
巧く足下に沈められたり、思い切りダウンザラインに
エースを取られたり.....
それでもプレッシャーはかけ続けました。
今日は体調も良くなったし
とにかく走り回りました。
ファイナルセットはキープキープが続きました。
何度もブレイクできそうで出来ない。
自分のサーボスゲームは苦しみながらキープすることが
多い私には苦しい状況。
それでも今日はとにかくやれることはすべてやる気持ちで
積極的に攻め続ける気持ちをボールにぶつけました。
5−4で1度マッチポイントを掴みますが
Stosurのファーストサーブがよくて取れない。
6−5で15−15で主審から最も近い場所だったにも関わらず
どうみてもサイドアウトだったボールを主審がオーバーコール。
アウトでしょ!!!と思う気持ちと同時に
こんな場面で!!!
と思う気持ちが重なりました。
嫌な流れで6−6。
タイブレイクでも1ポイント目の自分のサービスを落としてしまう。
なんとか気持ちを切り換えなければ.....
最後の最後まで攻める気持ちを崩さず
徹することができたのが大きな勝因かな。
大きな大きな勝利です。
明日はSF。
Peerとの対戦です。
彼女はメンタルが非常に強いし
プレーも穴のないプレイヤー。
フィジカルもタフです。
今日の疲れがどこまで回復するかわかりませんが、
また明日にできるベストを尽くすのみ。
ソフィア・ローレン(76)が「第22回高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞豊かな胸元もバッチリ。「深い幸せを感じています」と感慨深げ
世界の優れた芸術家を顕彰する「第22回高松宮殿下記念世界文化賞」(主催・日本美術協会)の受賞者が12日、東京・虎ノ門のホテルオークラで会見した。演劇・映像部門で受賞したイタリアの国際的女優、ソフィア・ローレンさん(76)は「集大成といえる受賞。でも、キャリアが終わったわけじゃない」と胸を張り、“生涯現役”宣言した。授賞式は13日、東京・元赤坂の明治記念館で行われる。
真っ赤なジャケットにスカート、そして豊かな胸元もバッチリ見せた。大女優の風格と華やかな雰囲気、そしてセクシーな色香は衰えを知らない。
映画デビューから約60年。イタリアにとどまらず、ハリウッドなど国際的な活躍が認められた。女優では初の受賞。「深い幸せを感じています」と感慨深げだ。
それでも、冗談ぽく笑いながら、「私はいまだに『大きくなったら何をしようかな』と考えているのよ」と張りのある声で付け加える。「台本を読んで『これだ』と思うもの、私の中のベストなものを引き出してくれるものに出会えれば、喜んで応じます。仕事してみたい監督? いっぱいいるわよ!」。仕事への意欲も、衰えてない。
昨年は米ミュージカル映画「NINE」(ロブ・マーシャル監督)に出演。主演のダニエル・デイ=ルイス(53)をはじめ、ニコール・キッドマン(43)、ペネロペ・クルス(36)など国際派スターぞろいの中でも、ひときわ貫禄を見せつけた。
今年は母国で、3月に2夜連続でテレビ放送されたスペシャルドラマに主演。ローレンさんの母、ロミルダさんの生涯をベースにしたドラマで、母役を演じた。「最も難しい役の1つでした。私なりに、母への思いがつまっているので…」。70代半ばにして、女優として挑戦的な役柄に立ち向かった。
「なるべく自然に演じたつもり。成功したと思うし、続編も作られるかもしれないわ」。関係者によると、同作は来年1月、NHKで「ソフィア・ローレン物語」(仮題)として放送が予定されており、銀幕だけでなくお茶の間でも健在ぶりが見られそう。
「人生は美しいと思う。何も映画ばかりじゃなく、他にもやりたいことがたくさんある。家族のこと、孫の成長のこと…人生は本当に美しいわ」。“イタリアの太陽”と称されたごとく、太陽のように明るい笑顔。仕事にも私生活にも前向きな姿勢が、若さと情熱を支えているようだ。
ソフィア・ローレン Sophia Loren
ソフィア・ローレン(Sophia Loren、1934年9月20日 - )はイタリアを代表する女優である。本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ(Sofia Villani Scicolone)。アレッサンドラ・ムッソリーニは彼女の妹アンナ・マリアの娘である
映画『真夜中へ5哩』(1962)
本名 Sofia Villani Scicolone
生年月日 1934年9月20日(76歳)
出生地 ローマ
国籍 イタリア
活動期間 1950-
配偶者 カルロ・ポンティ(1966-2007)
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1961『ふたりの女』
1991 名誉賞
英国アカデミー賞
主演女優賞
1961『ふたりの女』
グラミー賞
Best Spoken Word Album for Children
2004『Prokofiev: Peter and the Wolf/Beintus』
ゴールデングローブ賞
1995 セシル・B・デミル賞
セザール賞
1991 名誉賞
その他の賞
ヴェネツィア国際映画祭 女優賞
1958『黒い蘭』
プロフィール
イタリアの首都であるローマで、ロミーダ・ヴィラーニとリカルド・シコローネの間に生まれた内縁の子であった。幼少時はナポリ近郊のポッツオーリで貧困の中成長し、1950年代初頭にヨーロッパ映画に端役として出演した。その当時の名前はソフィア・ラッツアーロであった。彼女は後の夫となるカルロ・ポンティに見いだされ、彼の制作する多くの映画に出演した。彼女の初期の主演作の1つは1953年の『Due notti con Cleopatra』であった。同作は他の初期主演作と同様に、彼女の肉感的な体を強調した作品であった。さらに幾つかの作品にはトップレスで出演した。それらの作品は当時のヨーロッパでは受け入れられたが、イギリスやアメリカではそのような場面はカットされた。
彼女は1951年にハリウッドの超大作『クオ・ヴァディス』に端役で出演したが、1957年の『島の女』が公開されると彼女は国際的スターと見なされるようになった。この作品において、彼女の水に濡れて体のラインが浮き立つシーンは象徴的であった。
彼女はその初期のハリウッド作品『楡の木蔭の欲望』(ユージン・オニールの演劇)、『月夜の出来事』(ケーリー・グラントとのロマンティック・コメディ)、『黒い蘭』(アンソニー・クインとのロマンチック・ドラマ)でセックスシンボルとしてだけではなく、演技力と喜劇的な実力をも証明した。
ケーリー・グラントとは恋愛関係にあったことを、のちに発表した自伝『生きて愛して』で公表した。
2009年1960年代までに、ソフィアは世界で最も人気のある女優のうちの1人としてハリウッドとヨーロッパの両方で作品に出演した。1960年の『ふたりの女』でアカデミー主演女優賞を受賞。同年公開の『求むハズ』では共演のピーター・セラーズとのロマンスが報じられた(彼女は否定している)。この作品のプロモーションでソフィアとセラーズは共にアルバムをレコーディングした。
ソフィアは喜劇王チャーリー・チャップリンの最後の監督作品『伯爵夫人』に出演したことがあり、マーロン・ブランドと夢の共演を実現した。この作品は、チャップリンが、赤狩りによってハリウッド及びアメリカから追放された後の作品で、イギリスで製作、公開されたがあまり知られていない。
長い間、妻のいるカルロ・ポンティとは不倫の間柄だったが、彼の離婚が成立した1972年に正式に結婚した。指揮者のカルロ・ポンティ・ジュニアと、結婚後に生まれた映画台本作家兼監督のエドアルド・ポンティの2人の息子がいる。ポンティの脱税容疑事件の後、ジュネーヴに在住。事件でイタリア当局に没収されていたポンティ所有の絵画を、遺産として取り戻すとして裁判を起こした。
2006年、トリノオリンピックの開会式でオリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。
SSCナポリの熱心なサポーターである。セリエA昇格が期待される2007年には「ナポリが昇格したらストリップショーを開いてもいい」と発言した。
2008年来日し、イタリアの宝石ブランド「ダミアーニ」の銀座店のオープニングに登場したほか、4月21日、『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ)の「BISTRO SMAP」に登場した。
「第22回世界文化賞 演劇・映像部門」を受賞[3]により、2010年10月に来日し、ホテルオークラ東京で授与式と記者会見が行われた。
主な出演作品
クオ・ヴァディス - Quo Vadis(1951)
こんなに悪い女とは - Peccato che sia una canaglia / Too Bad She's Bad(1954)
ナポリの饗宴 - Carosello Napoletano(1954)
バストで勝負 - La Bella Mugnaia(1955)
河の女 - La donna del fiume(1955)
島の女 - Boy on a Dolphin(1957)
殿方ごろし - Pane, Amore e...(1957)
侵略者 - Attila(1958)
楡の木蔭の欲望 - Desire Under the Elms(1958)
月夜の出来事 - Houseboat(1958)
鍵 - The Key(1958) − キネマ旬報ベストテン第8位
黒い蘭 - The Black Orchid(1959)
私はそんな女 - That Kind of Woman(1959)
バラ色の森 - A Breath of Scandal(1960)
西部に賭ける女 - Heller in Pink Tights(1960)
ナポリ湾 - It Started in Naples(1960)
求むハズ - The Millionairess(1960)
ふたりの女 - La Ciociara(1960) − キネマ旬報ベストテン第6位
エル・シド - El Cid(1961)
昨日・今日・明日 - Ieri, Oggi, Domani(1963)
ローマ帝国の滅亡 - The Fall of the Roman Empire(1964)
レディL(1965)
アラベスク - Arabesque(1966)
伯爵夫人 -A Countess from Hong Kong(1967)
ひまわり - I Girasoli(1970)
ラ・マンチャの男 - Man of La Mancha(1972)
旅路 - Il Viaggio(1973)
逢いびき - Brief Encounter(1974)
カサンドラ・クロス - The Cassandra Crossing(1977)
特別な一日 - Una Giornata Particolare(1977)
プレタポルテ - Pret a Porter(1994)
微笑みに出逢う街角 - Between Strangers(2002)
NINE Nine (2009)
歴アカデミー賞主演女優賞: 受賞者 (1961-1980)
1961: ソフィア・ローレン | 1962: アン・バンクロフト | 1963: パトリシア・ニール | 1964: ジュリー・アンドリュース | 1965: ジュリー・クリスティ | 1966: エリザベス・テイラー | 1967: キャサリン・ヘプバーン | 1968: キャサリン・ヘプバーン/バーブラ・ストライサンド | 1969: マギー・スミス | 1970: グレンダ・ジャクソン | 1971: ジェーン・フォンダ | 1972: ライザ・ミネリ | 1973: グレンダ・ジャクソン | 1974: エレン・バースティン | 1975: ルイーズ・フレッチャー | 1976: フェイ・ダナウェイ | 1977: ダイアン・キートン | 1978: ジェーン・フォンダ | 1979: サリー・フィールド | 1980: シシー・スペイセク
100cmバストの愛川ゆず季、必殺!悩殺!ゆずポンキック 女子プロレスラーに転身し、31日にデビュー戦
Hカップ巨乳を誇るアイドル、愛川ゆず季(27)が女子プロレスラーに転身し、31日に東京・新木場1stRINGでデビュー戦を行う。このほど、東京・大手町のサンスポ編集局を訪れ、5カ月にわたって鍛え抜いたボディーを披露。“商売道具”の胸元に大きな青あざができており、「両足の甲の骨にひびが入り、左足のじん帯は損傷、額もぱっくり割れて、血だらけになりました。今も首が痛いんです」と衝撃告白。
デビュー戦の相手は、トップレスラーの高橋奈苗(31)。8年間のテコンドー歴を生かした必殺技「ゆずポンキック」を繰り出す構えで、「シュートボクシングのジムにも通ってます。打撃系を中心に勝負します」と宣言した。
19日にはプロレスラー転身への決意を綴った自著「血心(けっしん)」(1365円)を発売。同日午後6時半から東京・福家書店新宿サブナード店で握手会を開く。
★あいかわ ゆずき
愛川 ゆず季(あいかわ ゆずき、1983年5月16日 - )は日本のプロレスラー。スターダム所属。グラビアアイドル、女性タレントである。プラチナムプロダクション所属。
2003年、大きくパッチリとした瞳、バスト100cmの爆乳とクラシックバレエで鍛えたしなやかで柔軟な肉体を引っさげて水着グラビアデビューすると途端に複数の男性誌で表紙や巻頭グラビアを飾る人気グラビアアイドルの1人となる。現在はグラビアと並行し、テレビのバラエティ番組やWeb生放送のレギュラー番組で活躍中。
愛川 ゆず季 プロフィール
愛称 ゆずぽん
生年月日 1983年5月16日
現年齢 27歳
出身地 日本・愛媛県新居浜市
血液型 B型
公称サイズ(2007年[1][2]時点)
身長 / 体重 157 cm / 52.6 kg
BMI 21.3(普通体重)
スリーサイズ 100 - 75 - 89 cm
ブラのサイズ H
靴のサイズ 24 cm
身長 / 体重 5′ 3″ / 116 lb
スリーサイズ 39 - 30 - 35 in
活動
デビュー 2003年
ジャンル グラビア
モデル内容 一般、水着
他の活動 女優、タレント
その他の記録
日テレジェニック2005
略歴
1983年、愛媛県新居浜市に生まれる。父親はゆず製品製造会社の社長である[4]。
2002年、海外留学を目標として東京の外国語学校に進学するために上京。その卒業間際に渋谷109でスカウトされ芸能界入り。スカウトされた時に出された名刺の所属タレント名に若槻千夏の名前を見たことが、芸能界入りを決心させた。翌年男性雑誌の水着グラビアでデビュー。
2004年4月20日号『FLASH EX』に“彩川ゆずき”の名前でグラビアに掲載。生年月日は、1984年5月16日となっている。
2005年、同じ事務所の相澤仁美、渋谷真由、清原みゆきと共にSUPER GTイメージガール「P-ch!(ピーチ)」に選出。浜田翔子、西田奈津美、吉田智美と共に日テレジェニック2005に選出。
2006年、P-ch!のメンバーで同じ事務所の相澤仁美と「オーパーツ」というユニットを組みCDデビュー。
2007年、YOU THE ROCK★と共にサイバーエージェントのアメーバブログWeb生放送『Ameba番長』のレギュラーアシスタントMCを務める。
2009年10月6日から放送が開始されたTBS系「崖っぷち」内で、新規で始めたブログを3カ月で2000万アクセスに到達させないと芸能界を強制引退するという企画に挑戦した。企画発表からわずか8日で1000万アクセスを超え、2009年10月17日に2000万アクセスを突破したため、引退は回避できた。
2010年8月23日に記者会見でプロレスデビューを発表した。
●ゆずポンブログ
http://ameblo.jp/yuzuponpon/
多岐川華子>(22)が6日、俳優仁科克基と結婚。「結婚してくれ」と、「感動しました」と幸せいっぱい
女優、多岐川華子(22)が6日、俳優、仁科克基(28)との結婚報道を受けて都内で会見。今年1月、仁科に「結婚してくれ」とストレートな言葉でプロポーズされたことを明かし、「感動しました」と幸せいっぱいに語った。
華子は会見で左手薬指の婚約指輪を披露。母の女優、多岐川裕美(59)は仁科と共演したことがあり、仁科について最初は「ちょっと遊んでそうじゃない?」などと心配していたという。しかし徐々に2人の真剣愛に心を打たれ、結婚を快諾したという。
また華子は、子どもについて聞かれ「多すぎず…少なすぎず…」と照れながら語った。2人は11月11日に入籍する予定で、来年1月にグアムで挙式を行う。
仁科は俳優、松方弘樹(68)と女優、仁科亜季子(57)の長男で、芸能界の大型サラブレッド夫婦が誕生する。
俳優仁科克基(まさき=28)との婚約が明らかになった女優多岐川華子(22)が6日、都内で喜びの会見を行った。克基は松方弘樹と仁科亜季子の長男、華子は多岐川裕美の長女で、2世タレント同士の結婚になる。笑顔で婚約指輪を披露した華子は「心の広い奥さんになりたい」と幸せを語った。
2人は8年前から知り合いで、08年に再会した。以来、克基が猛アタックを続けてきた。華子は「月に2、3回は『嫁にする』『奥さんになって』と言っていたので流していたんですけど、今年1月に一緒にグアムに行って『結婚してください』とプロポーズしてもらいました。指輪を見て、本気なんだと感動しました」。
母の多岐川に報告すると、はじめこそ「えっ、うそでしょ」「ちょっと遊んでそう」と難色を示していたが、今は心から祝福してくれているという。元俳優だった父の阿知波信介さんを3年前に亡くしているが「きっと喜んでいてくれると思う」。また、婚約を伝えるこの日の新聞(日刊スポーツ)に掲載されていた仁科の家系図に「あらためて見たら『うわ、こんなすごい家庭に入るのか』と怖くなった」と笑顔で話していた。
来年1月11日に婚姻届を提出し、同1月21日にグアムで挙式するという。
たきがわ はなこ
多岐川華子 プロフィール
愛称 華ちゃん
生年月日 1988年9月16日
現年齢 22歳
出身地 日本・神奈川県
血液型 A型
公称サイズ(2007年6月時点)
身長 / 体重 161 cm / 43 kg
BMI 16.6(低体重)
スリーサイズ 80 - 58 - 87 cm
靴のサイズ 23.5 cm
身長 / 体重 5′ 4″ / 95 lb
スリーサイズ 31 - 23 - 34 in
活動
デビュー 2004年
ジャンル グラビアアイドル、女優
モデル内容 グラビアアイドル
他の活動 女優、タレント
多岐川華子(たきがわ はなこ、本名:大内華子、1988年9月16日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、女優である。父親は元俳優でアクターズプロモーション元社長の阿知波信介、母親は女優の多岐川裕美(1997年に離婚している)。サンミュージックブレーン所属。神奈川県出身。堀越高等学校卒業。
人物・概要
米をといだことすらなく、肉団子甘酢あんかけの「あん」を「餡子」と勘違いするなど、極度の料理音痴。
「I am 日本人」が女優デビュー作であるが、何故かプロフィールには記載されていない。
2010年1月15日発売のフライデーで俳優仁科克基(俳優松方弘樹と女優仁科亜季子の長男)との交際が報じられた。事務所は交際の事実を認めた。
2010年10月5日に仁科克基と結婚することを発表、2011年1月グアムにて挙式予定。
出演
テレビ番組
踊る!さんま御殿!!(日本テレビ)
愛のエプロン(テレビ朝日)
ブルブルアンタッチャブル(朝日放送)
いつでも笑みを!(関西テレビ、2004年8月28日)
ライフ☆イズ☆家〜イ! (BSフジ、2006年4月1日)
旅の香り(テレビ朝日、2006年7月23日)
いい旅・夢気分(テレビ東京、2007年4月11日)
めざましテレビ 「MOTTOいまドキ!」(フジテレビ、2009年4月 - )
趣味の園芸 (NHK教育テレビ、2009年4月 - 2010年3月)
ライオンのごきげんよう (フジテレビ、2009年4月23・24・27日)
未来創造堂 (日本テレビ、2009年5月15日)
太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。(日本テレビ、2009年10月16日)
もう一度逢いたい! 日本人が愛した女優伝説 (テレビ東京、2009年12月11日)
着信御礼!ケータイ大喜利(NHK総合テレビ、2010年3月6日)
愛の修羅バラ!(読売テレビ、2010年3月7日・3月14日)
イチハチ(毎日放送、2010年8月4日)
ドラマ
水曜ミステリー9 さすらい署長 風間昭平5「しなの千曲川殺人事件」(2006年9月6日、テレビ東京) - 小倉陽子 役
水戸黄門 (TBS)
第36部「若君救った女将の秘密(播磨)」(2006年12月4日) - 彩姫 役
第37部「美人妻と武士の一分(遠野)」(2007年7月23日) - 由紀 役
福岡恋愛白書3〜ふたつのLove Story〜 第2話『願い』(2008年2月8日、九州朝日放送) - 白井久美子 役
山田太一ドラマスペシャル 本当と嘘とテキーラ(2008年5月28日、テレビ東京) - ウェイトレス 役
メン☆ドル 〜イケメンアイドル〜(2008年10月-、テレビ東京) - レイ 役
土曜ワイド劇場「失踪調査人・港亮介」(2008年11月29日、テレビ朝日)
稲垣吾郎の金田一耕助 悪魔の手毬唄 (2009年1月5日、フジテレビ)- 仁礼文子 役
奇跡体験アンビリバボー(2009年1月22日、フジテレビ)
ママはニューハーフ (2009年5月19日 - 22日、テレビ東京) - プリン(中園エリコ) 役
ドラマスペシャル だましゑ歌麿(2009年9月12日、テレビ朝日)
アンタッチャブル〜事件記者・鳴海遼子〜 第2話(2009年10月30日、テレビ朝日)
ハンチョウ〜神南署安積班〜第3シリーズ 第1話 (2010年7月5日、TBS) - 女性警官 役
映画
I am 日本人(2006年8月5日公開)
旅の贈りもの 0:00発(2006年10月7日公開)初主演映画
初恋 夏の記憶(2009年3月公開、監督:野伏翔) - 主演・成島梨生 役
タレントの中川翔子(25)が2日、初主演となる携帯ドラマの初日舞台あいさつキスシーンで流血の惨事?を告白
タレントの中川翔子(25)が2日、初主演となる携帯ドラマ「恋の正しい方法は本にも設計図にも載っていない」の初日舞台あいさつを行った。2週間限定で劇場公開される。
ドラマ初主演となる中川は、撮影について「初めてブログも書けなくなって、4キロも痩せてしまいました」と告白。劇中ではキスシーンもあり、「緊張しました。血が出るくらい歯を磨いたし、フリスクも1箱全部食べてしまいました。私の人生の中でも大スペクタクルロマンでした!」と振り返った。また、自身が歌う主題歌「千の言葉と二人の秘密」を生披露し、ファンの大声援を浴びた。
“しょこたん”こと中川翔子が初主演したドラマ「恋の正しい方法は本にも設計図にも載っていない」が、ファンからの要望を受けて2週間限定で劇場公開。初日となる10月2日、中川が東京・新宿バルト9で舞台挨拶に登場した。
中川のシングル「千の言葉と二人の秘密」をモチーフに、人と接することが苦手な図書館司書の泉(中川)と、明るく活発な青年ネル(鈴木裕樹)の恋が描かれる。「月とキャベツ」「はつ恋」などで知られる篠原哲雄監督がメガホンをとった。
初めて主演を務めた中川は、セリフを覚えるのに苦労したようで「赤いマーカーを緑の下敷きで隠すチェックシートを買いました」と告白。だが撮影が進むうち自然と役に入り込み、重要なシーンでは「セリフを覚えるのではなく、『いま心から言いたい』という気持ちになりました」と手応えを感じたようだ。
キスシーンにも挑戦したが、「歯を磨きすぎて血が出ちゃいました。フリスクも1箱なくなった」と述懐。「でも泉さんが強くなろうと決意し、殻を破った瞬間。そこで自分の歌がかかる。人生の中でも大スペクタクル・ロマンでした!」と大満足の様子だった。
その後、篠原監督からの「いつか長編映画を作りましょう」というメッセージが伝えられると、「初めてブログが書けなくなり、ご飯が食べられなくなった。そのくらい大きな体験。監督にそんなお言葉をいただけてうれしい」と感激しきり。舞台挨拶が終わると、劇場内チケットカウンター上のバルコニーにサプライズで登場し、主題歌を熱唱。集まったファンや偶然居合わせた一般客を沸かせた。
★なかがわ しょうこ
中川 翔子 プロフィール
別名 中川 しようこ(本名)、中川薔子、中川しょうこ
中川 翔子(なかがわ しょうこ、本名:中川しようこ、1985年5月5日 - )は、日本の女性アイドル、マルチタレントである。左利き。座右の銘は「貪欲(どんよく)」。デビュー時の年齢にちなみ、現在も「16歳○ヶ月」(=永遠の16歳)と自称している。
愛称 しょこたん
ナカショー
しょこ
はうこ
生年月日 1985年5月5日
現年齢 25歳
出身地 日本 東京都中野区
血液型 A型
民族 日本人
瞳の色 茶色
毛髪の色 茶色
公称サイズ(2007年時点)
身長 / 体重 156.5 cm / 42 kg
BMI 17.1(低体重)
スリーサイズバスト 84cm - ウエスト58cm - ヒップ84 cm
ブラのサイズ C
股下 / 身長比 73 cm / 46.6 %
靴のサイズ 23 cm
備考 左利き
体重 5′ 2″ / 93 lb
スリーサイズ 33 - 23 - 33 in
股下 29 ″
活動
デビュー 2001年
ジャンル グラビア、CM
他の活動 歌手、タレント、
女優、声優
● しょこたんブログ
http://ameblo.jp/nakagawa-shoko/
来歴
1994年、9歳の時に父親の中川勝彦が白血病により死去。以後は母子家庭となり母親の桂子によって育てられる。
2001年、ポポロガールオーディションでグランプリを受賞し、デビュー。デビュー当初はジャッキー・チェン事務所に所属。後にMUSIC ON! TVの『夢ヶ丘レジデンス』では、ゲストのミドリカワ書房よりジャッキー・チェンの写真集を渡されたが、「ブルース・リーの敵と思っていた」[1]などと発言した。
2002年、ミス週刊少年マガジン2002に選ばれる。2002年11月頃、ワタナベエンターテインメントに移籍。
2004年、フジテレビ系『考えるヒト』にスポット出演した際に卓越したイラスト力を見せつけ、2005年の序盤に番組をマイナーチェンジしたフジテレビ系『考えるヒトコマ』ではレギュラー扱いで出演、出番を勝ち取った形となった。2005年5月から1年弱にわたって、TBS系『王様のブランチ』にレギュラー出演。これがきっかけとなって一般的な知名度が上昇する。
2006年7月、1stシングル「Brilliant Dream」(ソニー・ミュージックレコーズ)でCDデビュー。オリコン週間シングルチャート初登場29位。
2007年6月には3rdシングル「空色デイズ」をリリース。それまでのアイドル路線から一転、ハードロック調の曲に挑戦し、テレビ東京系列放送テレビアニメ『天元突破グレンラガン』オープニングテーマソングに起用された。オリコン週間シングルチャートにて初登場3位を記録し、累計約7万枚のスマッシュヒット。デビューシングルから3作連続で売上が上昇。2007年10月20日、渋谷C.C.Lemonホールで自身初のソロライブ「貪欲☆まつり」を行った。2007年12月31日、「空色デイズ」にて『第58回NHK紅白歌合戦』(NHK)に出場し、紅白に初出場を果たす。Yahoo!JAPANおよびgoogleの日本の2大検索サイトにおいて、2007年度の検索ランキング・著名人部門で1位。
2008年1月より放送開始のテレビアニメ『墓場鬼太郎』の第3話から第5話に登場する「寝子」の声優を務める。同アニメのエンディングテーマ曲「snow tears」はオリコンで自己最高位となる週間2位。デイリーチャートでは1月29日付で1位を獲得した。またこの曲でミュージックステーションに初出演。2008年3月に1stアルバム『Big☆Bang!!!』をリリース。5月から6月にかけて全国5都市6会場にて全10公演(追加公演を含む)の、自身初の全国ツアーを行った。2008年7月にアメリカ・ロサンゼルス・コンベンションセンターにて開催される「Anime Expo 2008」にて、自身初の海外ライブイベントを行った。2008年8月より、初の作品展「続く世界」を開催。2008年8 - 10月、「Shiny GATE」、「続く世界」、「綺麗ア・ラ・モード」と3ヶ月連続でシングルCDをリリースした。2008年9月27 - 28日にFCイベントである『貪欲会5』を開催。2008年11月24日、写真集『しょこア・ラ・モード』発売を記念して、銀座福家書店にて握手会を開催。
2009年1月1日、2ndアルバム『Magic Time』をリリース。2009年3月25日から戸田を皮切りに全国公演ツアーを開催。2009年4月に、8thシングル「涙の種、笑顔の花」をリリース。2009年8月1日、香港でのアニメイベント「香港動漫節2009」に出演。自身初の香港ライブを行った。2009年8月25日、『バラエティーニュース キミハ・ブレイク 飛び出せ!科学くんSP』(TBSテレビ)の企画で、海洋研究開発機構(JAMSTEC)所有の有人潜水調査船「しんかい6500」に搭乗し、岩手県三陸沖の日本海溝の海底(水深5,351メートル)への着底に成功した。また、深海生物の観察と捕獲のミッションを遂行した。芸能人の「しんかい」への搭乗は緒形拳(『プラネットアース』2006年8月 NHK、南西諸島 鳩間海丘、水深1,525メートル)以来2人目である。2009年10月24日に、初の日本武道館ワンマンライブ「中川翔子 超貪欲☆まつり IN 日本武道館」を開催。
2010年3月3日発売の少女漫画雑誌「なかよし」2010年4月号で、原明日美作画による「中川翔子物語」が連載を開始、同年6月3日発売の同誌2010年7月号まで連載された。2010年6月19日〜9月5日、東京・池袋のサンシャインシティ内のコニカミノルタ・プラネタリウム・満天にて、自身が企画・音楽・ナレーションを担当する初のプラネタリウム・プログラム、「”しょこたんの星空ツアー”飛び出せ!宇宙へ」が開催された。
103cmIカップの巨乳グラビアアイドル根本はるみが婚約!お相手は「前向きで優しい九州男児」ボインよりももっと大きな“愛”をゲット
タレント、根本はるみ(30)が10月に一般男性と結婚し、米国で挙式することが29日、分かった。同日、自身のブログと所属事務所の公式サイトで発表した。お相手についての詳細は明かしていないが、「前向きで優しい九州男児」とオノロケ全開。彼の仕事の都合で年内は米国を拠点に活動するといい、「毎日楽しく笑顔溢れる家庭を築けたら」と幸せいっぱいに綴っている。
103センチIカップの巨乳でグラビア界を席巻した根本が、胸よりももっと大きな“愛”を手にしていた。
根本はこの日、「寿」のタイトルでブログを更新。「突然ですが、みなさんに結婚の報告です! 来月、挙式することが決まりました」と発表した。
お相手については「一般男性の方なので詳細は控えさせていただきますが、とっても前向きで、とっても優しい九州男児です」と説明。8年前に出会い、4年前に再会してから仲良くなったといい、昨年から結婚を前提とした交際に発展。出会いから長い時を経てのゴールインで、「これからは2人で力を合わせて毎日楽しく笑顔溢れる家庭を築けたらと考えています」と幸せいっぱいに報告した。
根本は現在、レギュラー番組はないが、今後は「彼の仕事の都合でアメリカを中心に生活する事になりますが、お仕事は、会社や家族と相談して続けていきたい」とし、所属事務所も「年内は海外での生活が中心となりますので、来年より国内での活動をさせていただく予定です」としている。
関係者によると「根本には結婚したい気持ちがずっとあって、今、本当に喜んでいる」といい、今まで支えてくれたファンに真っ先に伝えたかったようだ。また、結婚式は米国で近親者のみで行う予定で、今後、会見や国内での披露宴の予定はない。挙式後、入籍するという。
妊娠はまだだが、「これからは少しずつですが新しい生活をブログで報告できたらなぁと思ってます!」とも綴っており、再びおめでたい報告が更新されるのも、そう遠くはなさそうだ。
★ねもと はるみ
根本 はるみ プロフィール
愛称 ネモネモ
生年月日 1980年7月28日
現年齢 30歳
出身地 日本・千葉県市原市
公称サイズ(2008年時点)
身長 / 体重 166 cm / 58 kg
BMI 21(普通体重)
スリーサイズバスト 103 - ウエスト60 - ヒップ88 cm
ブラのサイズ I
靴のサイズ 24.5 cm
]身長 / 体重 5′ 6″ / 128 lb
スリーサイズ 41 - 24 - 35 in
活動
ジャンル グラビア
モデル内容 水着
他の活動 タレント
根本 はるみ(ねもと はるみ、1980年7月28日 - )は、千葉県市原市出身の女性タレント。千葉県立京葉高等学校卒業。愛称「ネモネモ」。
所属事務所はイエローキャブ。血液型A型。
人物・エピソード
デビュー前、面接のため野田義治に会いに行った際に「オッパイが異常なくらいデカいので合う服がない」という理由からジャージ姿で現れた。
事務所初の3桁台にして最大の103cmのホルスタイン並みのIカップを特徴とし、グラビアアイドルとして人気を博す。
『愛のエプロン』(テレビ朝日系)では、プロフィールに違わぬ上手な料理の腕前を披露しており、2006年3月15日の放送では5位・特〜上エプにランクされた、小池栄子と共に会いに仲良くする。
高校卒業後、オーストラリアに3年留学していた為、英会話が得意。『空飛ぶグータン』(フジテレビ系)ではアメリカ人モデルで女優のデヴォン青木と流暢な英語で会話していた。
芸能人女子フットサルチーム「carezza」のオリジナルメンバーであったが、イエローキャブとサンズエンタテインメントの分裂に伴い、離脱。
女性アイドルグループ「R.C.T.」のメンバーとして、2002年から2004年にかけて活動。
網野泰寛とのユニット「BLUME」としてデュエット曲「I&I」を2006年12月6日にリリース。
市原市出身であることもあって、ジェフユナイテッド市原・千葉のファンである。
『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』のニセ温泉ロケにおいて、冷水に動じない演技力を見せている。
Narlボディーデザインの(通販)のコマーシャルで、1ヶ月でウエストを68cmから59.8cmにサイズダウン成功した、と発表している。
趣味はサーフィン。その影響で、肌が黒い。自らのブログを「波乗り日記」と題するように、仕事の話とともにサーフィン日記のエントリー(話題)が多い。主に千葉南の外房のポイントに出没しているという。2006年の夏には、湘南で開かれた大会に(テレビの企画などとは関係なく)個人の資格でエントリーした。
2006年10月22日放送の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の企画「ヘイポーときめきデート」に出演。予定調和ながら、体を張った企画に挑戦した。
熊田曜子と一緒に出演した『さんまのまんま』では、明石家さんまに対し「私と付き合ってくれたら、胸を揉ませますよ!」と発言し、さんまを困惑させた。
国際食学協会の「才食健美!親善大使2009-2010」に選ばれ、マクロビオティック検定A級プログラムを受講開始し、食学普及特使として活動することになった。
2010年9月29日、一般人男性との結婚を発表した。
紫綬褒章を受章の女優池内淳子が26日、肺せんがんのため死去76歳。東京都出身
テレビドラマ、映画に数多く出演し、舞台も活躍した女優、池内淳子(いけうち・じゅんこ、本名・中沢純子=なかざわ・すみこ)さんが26日、肺せんがんのため死去した。76歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く。
昭和29年、友人の勧めで「サンケイグラフ」のカバーガール募集に応募し、当選したのがきっかけで映画会社の新東宝に入社。翌年、「皇太子の花嫁」でデビューし、31年には東映の高倉健、日活の石原裕次郎らと第1回日本映画製作者協会新人賞を受賞した。しかし女優としての飛躍をもたらしたのは在社中から出演していたテレビで、35年に主演したフジの昼ドラマ「日々の背信」が茶の間の主婦をくぎ付けに。よろめきドラマ・ブームの口火を切り、一躍、スターダムにのし上がった。
その後、映画では森繁久弥主演の喜劇「社長シリーズ」「駅前シリーズ」で芸者役を演じる一方、松本清張原作「けものみち」ではシリアスなヒロインを演じるなど、多くの作品に出演。40年のTBSテレビ「女と味噌汁」のヒットを機に、高視聴率女優としての地位を確立した。44年、「天と地で」で舞台初出演した後、舞台女優としての道を目指して、大空真弓と「五月の会」を結成。代表作に「女と味噌汁」「おさん」「華岡青洲の妻」などがある。
今年5月、名古屋市の中日劇場で舞台「三婆」に出演するなど、最近まで芸能活動を続けていた。
私生活では32年、ボードビリアンの柳沢真一氏と結婚したが、翌年、スピード離婚。以後、独身を通した。平成14年、紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
池内 淳子(いけうち じゅんこ、本名:中沢 純子、1933年11月4日 - 2010年9月26日)は、日本の女優。
経歴・人物
山本富士子と同じく和服の似合う上品な美貌の持ち主で1960年代から1970年代まで、テレビドラマの女王として君臨した。東京市本所区東両国(現・墨田区両国)生まれ。トモエ学園を経て、1952年に十文字高等学校卒業。血液型はO型。 日本舞踊水木流家元栗島すみ子の弟子であり、名取「水木紅澄」でもある。
高校卒業後、日本橋三越に入社(配属された呉服売り場に後の女優・前田通子もいた)。そこで二人の美貌が評判となる。1年余り勤め退社、花嫁修業のため和裁と料理の学校(日本女子割烹専修学校(現・池袋調理師専門学校))へ通い「サンケイグラフ」のカバーガール募集に応募して合格。関係者の目に留まりスカウトされ、新東宝に入社。偶然にも前田と再会した。『皇太子の花嫁』で映画デビュー。続く清水宏監督の『次郎物語』で姉役を熱演し注目される。以来高島忠夫、宇津井健の相手役として多くの作品に出演。
1956年に『新妻鏡』で初主演。久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びる。その間、俳優の柳沢真一と結婚し、1957年に一時芸能界を引退、翌年に離婚して復帰。だが結婚に反対した新東宝社長の大蔵貢から冷遇され、復帰後は不本意な役も泣く泣く引き受けなければならなかった。
1960年、ドラマ『今日を生きる』に主演。平行してドラマ『日日の背信』(丹羽文雄原作、共演:原保美)にも主演。後者は昼ドラマにも関わらず驚異的な高視聴率を記録、人気女優として名を轟かす(しかし、テレビドラマを「電気紙芝居」と蔑んでいた大蔵貢はこの事が気に食わず、池内を映画では端役出演に格下げし、所属も大部屋にするなど横暴な事をした)。一方、新東宝はすでに経営が悪化しており、同年の9月16日と10月4日には24時間ストライキが決行され、同1960年12月1日、大蔵貢は辞任に追い込まれた。その後の再建工作も空しく、翌1961年8月末日、新東宝は負債総額7億8千万円(当時)を抱えて倒産。
その後は東宝に移籍し映画にも本格的に復帰。『社長シリーズ』、『駅前』シリーズ、『花影』、『けものみち』などに出演。また、テレビドラマにも主演し大活躍。よろめきドラマ(=現在の不倫ドラマ)には欠かせない存在として人気を集めて日本放送作家協会女性演技者賞を受賞。「お嫁さんにしたい女優」でも上位にランクインし、人気・演技力ともTV女優No.1の地位を確立した(「女と味噌汁」シリーズは好評で毎回高視聴率を誇り、代表作に。毎作20%以上の視聴率を獲るため20%女優とも言われた)。また、1974年から1980年にかけて、日本テレビとテレビドラマ出演のための専属契約(特例条件としてTBS『東芝日曜劇場』と映画の出演は可)をしていた。
1966年3月、第8回マルデルプラタ映画祭出席のため、南米のアルゼンチンを訪れている。
プロ野球の東京讀賣巨人軍のファンであることでも知られ、『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(東宝映画)では川上哲治、広岡達朗、藤田元司、国松彰、長嶋茂雄、王貞治等、当時の巨人軍選手と共演したこともある。また旧後楽園球場、東京ドームに年間ボックスシートを購入していたことも明かしている。
2002年、紫綬褒章を受章。
2007年4月、胸の違和感を訴えて検査入院した処、間質性肺炎、胸水貯留、肺腫瘍の診断が下され、約3か月の安静加療が必要となった。その為、同年5月25日から予定されていた『怪談牡丹燈籠』の全国公演を降板することを発表(代役は水谷八重子)。治療の難しい病気だけに、無事退院出来るかどうかが懸念されていたが、6月に退院。8月中旬からは民放の単発ドラマで仕事復帰することになった。
2008年4月、春の叙勲で旭日小綬章を授けられることが日本政府より伝達された[4]。2009年11月、天皇陛下御在位二十年記念式典に出席した。同式典において、今上天皇と皇后が関心を持つ分野の代表者の一人として、池内が紹介された。
2010年に入っても同5月16日まで名古屋の中日劇場で舞台『三婆』に出演していたが、約4ヶ月後の同9月26日午後4時26分、肺腺がんのため東京都内の病院で死去。76歳没。
池内の逝去の報を受け、大空眞弓は「お別れが早すぎます」と哀悼の辞を述べた