帰ってきた巨人の若大将高橋由伸早くも同点打で開幕勝利に貢献内海が勝利投手

セ・リーグ、巨人4−1ヤクルト、1回戦、巨人1勝、26日、東京ドーム)天才が帰ってきた。地鳴りのようなG党の大歓声。大きな拍手が背番号『24』に送られる。



 午後7時10分。高橋が打った。1点ビハインドの四回一死一、三塁。ヤクルト先発・石川が投じた138キロの内角シュートをたたく。鋭い打球がライト前で弾んだ。



 「やっとここに達したな、スタートが切れたなという思い。1、2打席ともいい場面で回ってきたけど、さすがに緊張して力が入った。打席に入ったときに大きな歓声をもらって本当にありがたかったし、心強かった」



 昨季はわずか1打席に終わり、9月に腰を手術した。そこから地道なリハビリを続け、オープン戦では打率・469、4本塁打の好成績。腰の状態についても「特に問題ない。普通ゲームに出られる」。不安はなくなった。



 「8番・一塁」で先発出場。二回一死満塁の第1打席は一ゴロに倒れたが、第2打席で“リベンジ”。スタンド観衆を大いに沸かせた。



 家族、仲間、友人…。多くの人に支えられ、ようやく戦場に戻ってきた。この日、自宅では元日本テレビアナウンサーの夫人、麻衣さん(34)が作ってくれた赤飯やタイの尾頭付きなどを食べて出陣。周囲への感謝の気持ちをバットに込めた。



 「応援してくれるファンのためにも、この一年間、声援を送ってもらえるように全力で戦っていきたい」



 モットーの全力プレーでG党をとりこにする。高橋の“復帰”を祝うかのように、五回には主将の阿部が中前に勝ち越しの2点適時打。3−1とリードした。リーグ4連覇へ、帰ってきたヨシノブが今季の強力打線の核となる。


★高橋 由伸(たかはし よしのぶ、1975年4月3日 - )は、千葉県千葉市中央区出身の読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手右投左打ポジションは外野手(主に右翼手)、一塁手(2010年)。背番号は24。



登録名は「高橋由」。同姓の高橋尚成(2000年入団)が2009年オフにFA移籍したことで「高橋」姓の選手は1名のみになったが、2010年以降も使い続ける予定である。労働組合日本プロ野球選手会」副会長の1人(2005年12月1日 - )である。



来歴・人物



プロ選手時代

1998年

プロ1年目の開幕を7番ライトで迎え、後半戦は5番打者に定着。8月4日の広島戦では同じ背番号24の左腕大野豊から逆転スリーラン本塁打を放つ(大野はこれを機に引退を決意したという)。この年は右足を高く上げる独特の一本足打法から、打率.300・19本塁打・75打点の好成績を挙げ、新人王候補にも名を連ねたが、中日川上憲伸が受賞した。新人としては異例のセントラル・リーグ特別表彰を受賞した。このころ「ウルフ」のニックネームが与えられたが、一般には定着しなかった。



1999年

バリー・ボンズをヒントに重心移動に取り組み、長打力もアップ。5月5日にはプロ2年目で巨人第66代の4番打者に指名される。以後チームメイトの松井、ヤクルトのペタジーニ本塁打王争いをする。しかし、本塁打王争いのトップに立っていた9月14日の中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際、外野フェンスに激突し鎖骨骨折の重傷を負い離脱。40本を超えるペースで本塁打量産していただけに、非常悔やまれる怪我であった。打撃タイトル3部門で好成績を残し、1億円プレイヤーとなる。



2000年

前半戦はプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。3番・高橋、4番・松井、5番・清原の強力クリーンアップの一員としてリーグ優勝・日本一に貢献。



2001年

前年同様シーズン序盤にスランプに苦しむ。それでも江藤智とともに3番・6番打者を任され、2年連続で全試合出場。8月1日の中日戦ではライバル川上憲伸からプロ入り通算100号本塁打を放つ。



2002年

度重なって死球を受け離脱するも、主に3番打者として2年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。